たとえば、それ以上の約束は必要なかった僕らのために

濃霧を含んだアパートの古い扉はよく軋んだ。ゆっくりと開けると彼女は静かに微笑みながらこんにちは、と言った。今は昼らしい。とりあえず中にあげると彼女はまたサボってると再び笑う。うるさいよ、と返すと彼女のこらえるような笑い声が部屋に広がった。

「この霧の中どうやって来たの」
「目をつぶって」
「はあ?」
「車も走ってないし、平気かなって」

よく見れば彼女の体には砂や枯れ葉がついている。僕はそれを払ってやりながらため息をついた。

「馬鹿だよね」
「うん」

いたずらっ子のような返事にまた呆れながら、何か飲む?と聞くとコーヒー、と返ってきて病院で眠る堂島さんの事を思い出す。ぎり、と歯の奥をかみしめて今切らしてる、と言う。冷蔵庫をあけて麦茶のペットボトルを出すと彼女はそれでかまわないといった風に頷いた。

「犯人、いなくなっちゃったね」
「……そうだね」

グラスを持つ手が少し震えた。彼女の言う犯人は生田目のことであって僕のことではない。うろたえる必要はない。

「どこへ逃げても警察が追うよ――はい、麦茶」
「ん。…頼もしいね」
「まあね」

警察は生田目がどこへ行ったのか分からないだろう。僕をのぞいては。ふいにあの真四角の世界を思い浮かべる。逃げるのも隠すのも――落とすのもあそこ以上に良いところはない。

「そういえば、今日あの子に会ったよ」
「え?」
「前にジュネスで会った透くんの上司の甥くん」
「ああ…元気だった?」
「目をつぶってたからぶつかっちゃって…ちょっと元気なかったな…」
「そっか……仕方ないよ。」

菜々子ちゃんのことも。堂島さんのことも。彼は誰も助けられなかったのだから。

「ていうかさ、なにしに来たの」
「……私しばらく出かけるから、その挨拶」
「ふうん、どこに?」
「……ちょっと見てて」
「?」

彼女はおもむろに自分の袖をめくって僕の前に晒す。夏に見たときよりも一層白くなったように思える。白い皮膚には水分の枯渇した土壌のような亀裂が入っていた。彼女は指先でそこを引っ掻く。

「ちょ、え」
「おもしろいでしょ」

ぱらぱらと、欠片もあればまだ彼女についたまま砂のように皮膚、がこぼれた。光の通らない霧の中で、彼女の砂はきらきらと輝いているように見えたが、ただ透明なだけであった。

「それ」
「病院でもわかんないんだって」

呼吸をするように彼女は告げる。するすると袖を下ろして麦茶を飲む彼女の動作に合わせてきらきらと光るものが見えた。

「私、死ぬっていうかなくなっちゃうから、」
「、え」
「寂しい?」
「……別に」
「言うと思った」

ふわりと彼女の口角があがり、また砂がこぼれる。きらきら、と輝くが、光はどこにもない。

「とりあえず、入院してみるつもりだけど、多分治らないと思うから」
「そう」
「…透くん」

まっすぐな瞳が僕の瞳を捕まえる。

「一緒に死なない?」
「…は、」
「………」

僕は返答に困って無意識に彼女の視線から逃れる。なんと答えよう。死んでも、いい。けれど、嫌ではないけれど、

「なんちゃって」
「……はあ?」

ぺろりと彼女は舌を出す。その舌にもういくばくもの水分が残っていないのだということが見て取れた。

「透くんと死んだら、きっと後悔しないかなと思ったけど、違うね」
「違うの?」
「うん、後悔するのはきっと透くんだ」

そうでしょ、と彼女は意地悪く笑ったまま僕に問う。僕は答えられなかった。ふざけてでも答えればよかった。気まずさが残る。まるで砂のように。ざりざりと僕の中に残ってしまう気がした。彼女は僕の返答に期待することもなくグラスに残った麦茶をあおり、立ち上がる。

「じゃあ、それだけだから帰るね」
「そう、」

居心地の悪さゆえか僕も一緒に立ち上がって見送ることにした。彼女の背中はうすく輝いているが、やはり光源がどこかはわからない。彼女が扉を開けると霧がもわりと部屋の中に進入してきて、彼女を包んだ。すると彼女は、あ、と思い出したように振り返った。

「どうしたの?忘れ物?」
「うん、…握手しようか、透くん」
「え?」
「お別れの握手だよ」

ふふ、と手を差し出してきた彼女の顔は霧に隠れてどんな様子かわからなかったが、僕はそっと彼女の手を握る。まるで儀式のようにそっと、彼女の手が崩れてしまうのではないかという怖さと光もなくきらめく彼女の手の冷たさを受け止めるように。

「またおいでよ」
「いつになるだろう」
「霧が晴れて、犯人が捕まって、僕がサボらなくなったら」
「来るの?そんな日」
「来るよ、君が治ったら」

僕はうそをついた。けど不思議とうそをついている気分ではなかった。明日になったら霧が晴れているかもしれないし、生田目がひょっこり現れるかもしれない、僕の気が向いて、堂島さんが僕を引っ張りに怒鳴り込んでくるかもしれない。彼女の体から彼女の細胞がこぼれなくなるかもしれない。そんな明日がくるかもしれない。

「元気でね、透くん」

彼女の声は澄んでいた。涙ぐむとか、僕の調子のいい言葉に笑うとか、そういうものが排除された声だった。僕は君こそ、と言おうとして、手の中の感触に身を引いた。ざらり、砂の城を蹴飛ばしたような、重くて軽い音がした。僕の足に、ばさりと何かがかかり、それは彼女だとすぐ理解した。 手の中の彼女は、右手しか残っていなかった。握ったときのようにそっと、手を動かすと、さらりと手のひらから抜けてしまった。反射的につかむと、手の中の彼女は一瞬きゅっ、と鳴った。

まるで笑ったみたいだった。

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