寓話が始まる
もうどれぐらい走ったのか自分でもよくわからなくなっている。喉が焼け付くように痛い、肺がきゅうきゅうと音を立てて軋んでいる。
でも走らないと捕まっちゃうんだ。手に持っていたかばんは邪魔だったから捨てた、可愛いからと買ったお気に入りの靴は走り出したときに脱げてしまった。
でももう必要ない。だって可愛いねといってくれる人は皆、理性を失って私を追いかける黒い塊になってしまったのだから。
「鬼ごっこをしよう」
叫び声が交じり合う道路の真ん中で、足立さんは笑顔をほころばせて言った。私は周りの状況が掴めず混乱していたから、ルールはよく聞いていない。
「――逃げ切らないと、死んじゃうよ?」
その言葉だけで私が走り出す理由は十分だった。
ぐちゅ――黒い塊がすぐそこまで迫っているのか足の裏から血が出ているの音なのかわからない。それが背後で音が耳を震わすと同時に曲がり角を曲がる。
足の感覚はもうない。おもちゃのように足を動かし続けながら、逃げ切れるのだろうかと考える。
きっと今やっていることは全部無駄で、走りきった先に何もないことを証明するために走っているのだとしたらそれは。
瞬間、足がもつれてその場に転がる。突き出した両手もむなしく肩が地面に叩きつけられ、鈍い痛みが広がった。引きずるように起き上がると、茶色の革靴が目に入って戦慄する。
走り出そうとしても足が動かない、びくびくと震える眼球で見上げるとジュネスで会ったときのように少しだけはにかみながら足立さんは手をひらひらと振った。
「これ、君のお気に入りの靴でしょ?」
あのとき脱げた私の靴を片手に持って、私の目の前にしゃがみこみ擦り傷と土と赤黒い何かにまみれた私の足をそっと掴み靴を履かせる。走り続けて感覚のなくなったはずの足から背筋に向かって鋭く悪寒が走る。これからわたしがどうなるのか、察知したみたいに。
「あ、あ、ああ、」
引きつった声を上げながら後ずさろうとすると背中に何かが当たる、うぞうぞと体中に黒い手が巻きついて私は叫び声を上げた。声には、なっていなかった。
涙でぼやけたのか黒い手が目を塞いだのか分からないただ失われていく視界の向こうから優しい声が聞こえた。
「可愛い靴だね」