追って追われて抱きしめて

 珍しいこともある、と稲姫はその光景を見て思った。茶会のあと、武将たちはそれぞれくつろいでいた。稲姫は家康自慢の庭を眺めていたが、ふと見つけたその光景の奇妙さを伝えようと、共に庭を見ていた井伊直虎と歴戦の勇士に、あれを、と屋敷の一室を見るように促す。
 そこには柳生宗矩と立花宗茂がいた。二人は相好を崩して畳の上にあぐらをかき、静かに談笑している。庭を背にしているため、宗矩の表情はわからないが、きまぐれな宗茂が黙って会話しているのだから、二人の会話は弾んでいるのだろう。
「変わった方々ですから、気が合うのかもしれませんね」
「あはは……どんな話をしてるんでしょう、ねえさん」
 稲姫の言葉にどう返答していいかわからず、直虎は隣のに話を振った。だが、直虎が話しかけた刹那、は駆け出していた。音もなく軽やかにーーまるで疾風のごとく! 稲姫と直虎が声を上げるよりも前には縁側を飛び越え、居室に悠然とたたずむ宗矩の背中に飛びかかった。
 が、次の瞬間は畳の上で受け身を取っていた。すぐ横にはあぐらをかいたままの宗茂が楽しそうにし、その手前には何事もなかったかのように宗矩が座っていた。が身を起こすのと同時に、宗矩は肩をすくめ、
「不意打ちとは考えたなァ、だが動きが大きすぎる」
 と言った。
 底意地の悪そうな笑みを浮かべた宗矩に、なにかを言おうと口を開いただったが、その前に稲姫の雷が轟いた。
「――何ですか、今のは!」

 正座し、うなだれるに稲姫がよく通る声で説教をしている。なぜか直虎までの横で正座し、縮こまっていた。説教が長引く前に居室から逃げ出した宗矩と宗茂が、今度は並んで庭を眺めていた。だが、おとなしく庭を眺めているわけではなかった。
がおじさんに飛びかかったのは、こういう訳なのさァ」
 以前、が宗矩の胸に飛び込んで来たのを避けたことがあった。もんどりうって倒れたを宗矩はせせら笑ったものの、その後はなにごともなかった。だが、それからというもの、は宗矩の隙を狙って飛びかかってくるようになった。数多の戦を渡り歩いてきた武士の意地がそうさせるのか、どうしても一本とらないと気が済まないらしく、手をかえ品をかえ襲いかかり、とうとう背後を狙ってきた、というわけだった。
「なるほど、良い遊びだ」
 宗茂がにこやかにうなずくと、宗矩は顎をなでさすりながら、恨めしげな視線を送ってくるを見、笑みを浮かべた。
「まァ、飽きないのはたしかだねェ」
「じゃあ、俺もやってみるかな」
 宗茂はそう言うと、さわやかな足取りで稲姫たちのいる居室に向かった。宗矩は興味深そうにその背を見送った。

 稲姫の叱責はの普段の生活態度にまで及んでいるらしく、宗矩に飛びかかった件についてはだいぶ前に終わっていた。は「それは今関係ないよね」と言おうとするのだが、稲姫の「喝!」で黙らされてしまう。数々の戦功を上げた武人もこれでは形無しだった。
 そこへ宗茂がふらりと現れた。稲姫たちに大きな影が落ちる。稲姫や直虎が首を傾げるのを、宗茂は笑って見つめた。
、俺も遊びに混ぜてくれ」
 これは遊びではありません、と誤解した稲姫が言う前に宗茂は素早く手を伸ばした。だが掴んで引き寄たのは直虎であった。井伊家特製の露出の激しい甲冑から肉がこぼれ、宗茂の体に密着した。宗茂は感嘆の息を漏らすと、流れるように身体を離した。そしてその場に直虎を座らせ、身代わりをたてて逃げ出そうとするの腰をつかんだ。可憐というにはほど遠い声を上げ、は身体を反転させてひらりと宗茂から逃れる。
「惜しかった」
「そういう問題じゃない、何、いったい」
 障子を背に、は言った。視線は宗茂の両側を見ている。呆然と固まっている稲姫と、顔を真っ赤にしてうずくまっている直虎が目に入った。惨状だった。
「遊びだろう、面白そうだからやってみようかと」
 宗茂は涼しげにそう言うと、摺り足でに近づいた。じりじりと間合いを詰め、からめ取る気らしい。はどうにかすり抜けようと隙を探るが、うまくいかない。
「あ、遊び? 勘違いしている、これは、宗矩と私の賭けみたいなもので……」
「そうか、じゃあその賭けに俺ものせてくれ」
 ああいえばこういう。は宗茂の気迫に押され、障子ごと後ろに倒れてしまいそうだった。
 持久戦は不可能だ。説得も無駄。は黒田官兵衛や竹中半兵衛のような軍師ではない。野を駆け人垣を打ち崩す武士である。難事はすべて高い身体能力で切り抜けてきた。しかし、相手が宗茂では実力はほぼ互角。
 どうする、とが頭を巡らせていると、いまだに放心状態の直虎と稲姫の先に宗矩が立っていた。
 家康自慢の庭を背後に、いつものようにだらしなく、しかし端然と佇んでいる。その宗矩が、指をちょいちょいと動かした。まるで犬を呼ぶかのような仕草には怒りを覚えたが、すぐにハッとした表情をした。宗茂がそれに気づくと、一瞬身構える。は見計らったかのように宗茂の胸に飛び込んだ。とっさに抱きとめようとした宗茂の脇をすりぬけ、は縁側を転がる。そして颯爽と立ち上がると、宗矩と宗茂を一瞥し「馬鹿!」と叫んでどこかへ走っていった。
「逃げられたか、俺の負けかな」
 宗茂は空を抱いていた腕をほどいた。特別悔しそうな表情はしていない。普段通りけろりとしていた。
「追う側というのを試してみたかったんだが」
「あんたには向いてないかもなァ」
 宗矩が言うと、宗茂は歯を見せて笑った。
「俺もそう思う」
 和やかな雰囲気に包まれ、宗茂と宗矩は気づかなかった。すぐ後ろで稲姫が怒りを爆発させ、こう叫ぶのを。
「二人とも――そこになおりなさい!」


20130308

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