青空を抱け

レナ様が連れてきた子供は世界のすべての沈黙を授けられたかのように静かな子で、泣き言ひとつ言わずに修行に励み、里の者の言うことを良く聞いた。

私はよく文字を教えた。私がほめるとあの子は普段見せないような満面の笑顔でうれしいな、と繰り返し言った。 私はそのたびにあの子にホタポタを剥いてあげた。ホタポタの果汁を口のまわりにたくさんつけて、おいしいな、と繰り返し言った。 あの子の笑顔はそのときばかりは年相応で、私はあの子がだんだんと里を受け入れていることに喜んだ。

私の故郷は、世界を喰らう者に壊された。里の者の静止を振り切り一目散に私の故郷へ向かうと、故郷はなくなっていた。 無残に、かけらすら残されずに。瓦礫に赤い膜が張られているように見えたのは、人間の血だった。まるで暴発したような飛沫の上で私は泣いた。 世界を喰らう者への殺意でも、故郷とともに死ぬことを怖れた自分を憎らしく思ったわけでもなかった。
ただ私は悲しかった。

あの子が来てから初めてレナ様は眠りから覚めた。長い時を生きているレナ様にとって、ただ起きているだけでも体に負担がかかるのだ。 しかしレナ様はそんな状態にあっても目を覚ませばすぐに里の者達に声をかけた。 里に生まれた子供は元気か、痛めた体はよくなったか、地下とはいえ広い里をゆっくりと歩き、レナ様は里の者を労う。
当然あの子にも声をかける、レナ様は「ダネット」とわが子のように呼ぶ、ダネットは笑顔で返事をし、その後ろであの子は静かに会釈をする。 レナ様はほかの人間に向ける、慈愛に満ちた表情で「あなた」と呼ぶ。呼ばれたあの子は静かな、まるですべてを諦めたような、静かな顔で返事をする。

レナ様はそれに違和感すら覚えずに、励むのですよと言ってまた眠りにつく。私はわずかな違和感を覚えたがみないふりをした。 里の絶対的な存在であるレナ様に、間違いなどあるはずがないと、思っていた。
それからあの子はさらに静かに、眠りに落ちるように黙した。笑みはささやかに、怒りは表さず、ダネットの後ろで優しく、穏やかに、育っていった。

だからだろうか、こんなことになったのは

レナ様の腹に杭を打ち込むようにあの子は剣を突き刺した。そしてもう一度、もう一度、抱かれたいとせがむ子供のように、黒い剣が赤く染まるまで突き刺した。 そばに転がったダネットの四肢が、右手が、それでもあの子を信じるように伸ばされて、左手が短剣を握り締めて今にも動き出しそうなほど、憎悪に満ちていた。 あたりに漂う血の匂いに、誰かがあの子は狂気にのまれたと小さく呟く。

誰かが、嗚呼、と呻き、涙を飲んだ。それはレナ様の死に対して、
誰かが、惨い、と言い、歯を噛み締めた、それはダネットの死に対して、

本当はだれもあの子のことを知らなかったのではないか。あの子が抱いていた感情、思考、知覚、それは静寂に包まれていた。 誰もあの子の名前を知らなかったのではないか。誰もあの子の名前を呼ばない、誰もあの子を見ない。ダネットの後ろ。あの子。

ならば、あれがあの子なのだ。私たちの知らない、あの子の姿。私たちが見ようともしなかった、あの子の姿。
私たちは、あの子を殺そうとした。それが使命だからだ。そしてあの子は私以外を殺した。 ダネットの右足を蹴り倒し、私に近づいたあの子に私は何かを言ったかもしれない、何も言わなかったかもしれない。 振り上げた私の斧をあの子はそっと触れて吹き飛ばした。腹部に走る熱。

あの子は私を切った。躊躇はなかった。倒れた私の背中に生えた真白い翼を両手でつかみ、引っ張った。鈍痛。激痛。 死の淵にあって私は悲鳴をあげる。死が急速に私の眼前に迫ったのを感じた。あの子は笑い、あの子は笑い。私も笑う。
空を飛んでみたいと言っていたっけ。

私はあの子に手を伸ばしてあの子に触れようと思った。 きっと今までにも触れたことはあったはずなのに、私はまるで初めてあの子に触れるように手を伸ばした。 あの子は私の翼を握り締めて、私の瞳を見つめた。あの子の瞳の奥にあるものは、いいや、あの子の瞳の奥にはなにもない。 悲しみも、狂気も、喜びも、その赤い瞳には何も映っていなかった。

私たちは、お前になにもを教えなかったんだ。
愛を注げば、お前は間違えないと勘違いしていたんだ。お前は賢い子だから、すべてを悟ると思っていたんだ。それすらも間違いだろう。 私は間違ったまま、死んでいくよ。翼はあげよう、捨ててかまわない。空高く飛んで行け。

20100801

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