共同生命絶縁体

気づかない振りをすればいい、そう思いながら私は足立さん、と声をかけた。彼は一寸ぴくりと反応してゆっくりと振り返る。今この時間――学生は授業中である白昼にジュネスにいるはずのない私がいることに矛盾を感じて振り返る。それとも、と私は一瞬考えてその考えを捨てる。もしそうだとしても彼はきっとそれを巧みに隠すだろう。入れたばかりだというのに水滴の滴るコップを持ち直して歩く。

ちゃん?」
「こんにちは」

うわべだけの微笑でそうかえすと、足立さんはゆるやかな笑みを浮かべながらいーけないんだー、とまるで子どものように無邪気に言った。私はそれを無視して足立さんの座るテーブルの向かいに座る。ろくに教科書の入っていない鞄を足元において、ちらりと足立さんの足元が目に入る。彼の足元から赤と黒が波立っているように見えた。幻覚。私は鼻で笑って頭を振った。

「授業は?」
「さぼっちゃいました」

おどけてそういうと足立さんはハハと興味のなさそうに笑った。あそこではあんなに楽しそうだったのになあ、あのときの足立さんすごく楽しそうでしたよと心の中で呟く。あのとき。ざくざくと記憶が脳を刺激して私の底からあのときを思い出させる。黄色いテープ。DENGERCAUTION。赤と黒。波形。頭を掻き毟ってそうまるであんたが嫌いな子どもみたいにそうまるで子ども。

ちゃん」

あのときの私は私じゃない。それは、本当のことが分からないから仮定するが、どうやら私は一度、稲羽での一年間を過ごしているらしい。それに気づいた時のことは思い出せない。思い出そうとすればするほど、頭が痛むのだ。くらくらと鈍痛が響く頭で、足立さんを見ると、首をかしげた足立さんはにこにこと笑いながら指先をまっすぐと、まるであのときの銃口のように私に突きつける。

「その傷、どうしたの?」
「・・・紙で切っちゃって」

足立さんの脅迫状でね、切っちゃったんです。そう言ってしまえば何か変わるだろうかと少しだけ期待して、ほくそえむ。人差し指に巻かれた絆創膏を果たして前の私は巻いたのだろうか。2度目は1度目とは違う、なにごとも。そう考えただけで、私は前の私に優越感を覚えてしまう。足立さんはからかうような声でへえーとかふうんとか言う。

「ラブレター?」
「ある意味、ラブレターでしたよ」
「・・・どういうこと?」
「私はもらって嬉しかった、そういうことです」

私はひそりと微笑む。足立さんはそっかあ、と唇だけで言いながら私の人差し指を見る。もう傷はふさがりかけて痛みも何も感じない。恋人に指輪をもらったみたいに人差し指を伸ばす。もっと見てください。あなたが傷つけた私の指先を。ああ、頭が痛い。

「僕、君のこと嫌いだな」

突然、というほど突然でもなく足立さんはぽつりと言った。なんとなくコップを覗き込むと、すっかり溶け切った氷がジュースと混ざっていた。これは飲む気がしない。後悔するより先に飲めばよかった。

「奇遇ですね、私も嫌いです。」

笑おうと目を細めると眩暈がした。額を押さえると視界は遮断された。まぶたの裏でふつふつと光のかけらが暗闇を漂う。それを追いかけたら記憶の底で震えたままの、赤黒い世界でみた足立さん以外の足立さんが見れるのだろうか。見たい、私の知らない私の見た足立さんが見たい。無理だって分かってるから、大丈夫。1度目は2度目と違うのだ。ああ、鼻の奥がつんとする。

「あだ、ちさん」
「なんだい?ちゃん」
「足立さんが嫌いなのは、今ここにいる私ですか」
「・・・それは、難しい質問だね」

足立さんは寂しそうな悲しそうな顔をして人差し指でテーブルを叩く、その音が私にはとても心地よいリズムに聞こえる。じゃあ、と吐き出すように続けた声はまるで演技のよう。

「君が嫌いなのは今ここにいる僕?」
「・・・難しい質問ですね」

最初から決められていたような返答をして、私は足立さんの目を見つめる。黒目が私を捉える。まるでうんめいみたいですねあだちさん。私が小さくいうと足立さんは、ぼくもそうおもうよとにっこりと笑う。これが運命ならふたりはきっと幸せになれる、そう思ったことは黙っておく。私も足立さんも、結末は一つだけだということを知っている。それでも私達はかわらずくりかえす。くりかえしてくりかえして、擦り切れた私達は終わりを迎えられる。

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