水底に眠る人魚の瞳

署内の空気はぴりぴりしている、自分とは関係のない部署でもここまで空気が変ってしまうものなのかと思いながら両腕をさする。 これからその空気の根源へ向かわなきゃならないなんて気が重いけど仕事だから仕方ない。 手元の届けるべき資料を恨めしく見ながら廊下を歩いていると、前から見知った人が下を向いて猫背をさらに丸めながら歩いてくる。

「あっ、足立先ぱ・・・」
「・・・、あれー?どしたの」

ふっ、と顔を上げた足立先輩の目に通り過ぎた何かに違和感を覚えて背筋が震えた。出そうとしていた声が喉に戻ってどもってしまった。 いつもの足立先輩の目は、ぼんやりしてる印象が強い、けどよぎった瞳は冷たく濁っていた。 もしかしたら署内の空気に当てられたのかもしれないけど。

「えっ、えっと、これ堂島さんから頼まれてた資料なんですけど」

あわよくば届けてもらおうと思っていた資料を差し出しながら確かめるように足立先輩の顔を見上げるといつもと変らないぼんやりとした顔で資料を受け取った。・・・気のせいだったのかな。

「先輩向こうから来ましたけど何か事件でもあったんですか?」

気を取り直して世間話を持ちかけてみる、足立先輩がやってきた方は確か取調室があったはずだ。 春に稲羽署に配属されたとき、こんな田舎なのに署内は結構広くて、たくさん迷ったからよく覚えている。

「・・・うん。ちょっとねー」

見る気があるのかないのか――まあ私も確認してもらおうと思って見せているわけじゃないからいいけど。ぱらぱらと資料をめくりながらそう言う先輩の言葉にはっと気づく。

「先輩・・・まさかまたさぼってたんじゃないでしょうね?」
「え?・・・、あははは・・・内緒だよ?」
「先輩こないだもそういってジュネスでさぼってたじゃないですか!」
「あの時はちゃんと口止め料払ったでしょ」
「ホームランバーだったじゃないですか!」

ホームランバーはおいしいけどね!でもそれとこれとは話が違う。 子ども扱いしないで下さい!といおうとすると資料で顔を押さえられた。手を離したのかそのまま床にひらひらと落ちていく資料。

「あああああ!」
「ちゃんと留めておかないと駄目だよ」

急いで拾おうとしゃがみこむと足立先輩も一緒に拾ってくれる、悪いのは足立先輩だけど。 たいした枚数ではないので拾い集めていく、最後の一枚に手を伸ばすと同じく足立先輩の手も伸びる。 思わず手を引っ込めてしまった私はきまずくて足立先輩の顔を見た。片方の頬だけうっすらと赤くなっている。どうしたんだろう。

「先輩、頬赤いですね。どうしたんですか?」

触ろうと手を伸ばすと手の甲に衝撃がはじけた、はたかれた。鋭い拒絶の反応に驚いた私は差し出した手を引っ込めてしまった。

「あ、ご、ごめんなさい」
「い、いや僕こそ、ごめん」

気まずそうに最後の一枚を私に渡しながら立ち上がった先輩と同時に私も立ち上がる。 いたたまれなくなって踵を返そうとすると腕を掴まれた。振り返ると先輩が真面目な顔をしていたので驚いた私はその目を凝視してしまう。 さっき感じた冷たさをまた感じたけど、どこか救って欲しいといっているような、深いところから手を伸ばすようなすがる瞳だった。 拒んだらいけない、と思った私はどうすることもできず息を呑む。 足立先輩の手が掴んでいた所からするすると滑ってくすぐったい。私の手を自分の頬にあてていつもとは違う少しだけ低い、どきどきするような声で言った。

「・・・寝跡、取れてない?」
「一生寝てろ!」

掴まれていた手を振り払い資料を押し付けて廊下を早足で歩く、耳が熱い。からからとした笑い声がしてむっとした私は後ろを振り返って届けておいてくださいね!と叫ぶと苦笑交じりの先輩はひらひらと手を振った。 大して距離は離れていないはずなのに、とても遠くに感じるのは、何でだろう。

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