忘るるか君を


※捏造人物が登場します。

 七代君が亡くなって、もう一か月になる。お父さんは、七代君のことを話さない。忘れろ、 ということなのだろう。学校に行くたびに、教室に行くたびに、七代君の姿をさがしてしまう。忘れられるわけがなかった。
 冬休みになってほっとしても、家には七代君の部屋がそのまま残っている。ふすまを開けて、七代君が出てくるんじゃないかと、馬鹿な期待を抱いてしまう。
 ぼんやりと特番を見ながら、過ごす毎日。その人は来た。「ごめんください」と上品な声が聞こえて、お父さんが新聞をちゃぶ台の上に乗せて立ち上がる。

「朝子、客だ。茶を入れてくるから、頼む」
「お父さんが出たほうがいいんじゃないの?」
「お前に茶を入れさせたら、客が帰っちまう」
「なによ、もう」
「いいから、早くしろ」

 お父さんとの会話は、普段と変わらなかった。それが唯一の救いで、罰なのだ。私がお父さんを責めても、お父さんは黙ってうなずくしかない。お父さんは一人の人間の命を奪ったのだ。私のために。私はそう考えながら、テレビを消して玄関に向かった。
 玄関には、もう人がいた。私はその人を見たとき、息が止まるかと思った。口元に浮かべる笑みや、たたずまい、こちらを見るときの、優しげな瞳。

「七、代くん?」
「こんにちは、あなたが朝子先生?」
「えっ、あっ、そう、です。……あの、あなたは」
「ああ、ごめんなさい。はじめまして、七代千馗の母です」
「あ、」
「あなたの事、よく息子から聞いていて、つい初対面だってこと忘れてました。許してね」

 その人は、目尻を下げて笑った。私は、早鐘のように打つ自分の心臓をおさえて、彼女を部屋へ案内した。七代君の、お母さんを。
 台所へお茶を受け取りに行くふりをして、私はお父さんのもとへ駆けた。

「お父さん、あのひと、七代君の」
「ああ、あいつの、遺品を取りにな」
「遺品」
「部屋のものだ。まあ、そんなにないが……送るといったんだが、取りに来ると言うものだから。……朝子」
「……えっ、何?」
「お前、どっか行って来い」
「な、大丈夫よ。お父さん。私、七代君の担任だったし、それに、それに……」
「朝子」
「いやよ」
「……」
「私が話すわ」

 お父さんはため息をつくと、「勝手にしろ」といわんばかりにお茶を乗せたお盆を私に渡した。私はこぼれないようにそれを受け取る。振り返って、七代君のお母さんの所へ向かおうとすると、後ろからお父さんが言った。

「七代が死んだのはお前のせいじゃない。全部、俺のせいだ」

 私は何も走るよう言わずに台所を出た。七代君が死んだのは、誰のせいでもない。

「どうぞ」
「まあ、ご丁寧に。たくさん歩いたから、うれしいわ」

 お茶を差し出すと、七代君のお母さんはそれを両手で持ち上げて、ふうふうと息を吹きかける。それから、湯呑みをちゃぶ台に置いた。私はお盆を抱きしめるように抱えながらそれを見ていた。
 彼女は七代君の姿を探すように部屋を見回して、ああ、いないのだったという風な顔をしたあと、私の顔を見て言った。

「遺体、ごらんになりました?」
「……見てません」

 七代君の体は、札の情報量でいっぱいになって、消えた。私はそれしか聞いていない。私が見たとき、七代君が倒れた場所には、もう制服と、彼がつけていたグローブしかなかった。檀君や穂坂さんが、彼が居たところにうずくまって叫んでいた。その時のことを思い出して、私はお盆に爪を立てた。

「遺骨がないのは、さみしいわね」
「……ごめんなさい」

 彼女はちょっと笑って、私を見つめた。その目は、しかたがないなあ、という風な色をして、瞬きをした。
 私が七代君い問い詰めたとき、彼もそんな顔をしていた。あのとき、何が何でも彼を止めさせていたら、………………。彼が亡くなってから頭の中で幾度も繰り返した思考の循環がはじまる。それを断ち切るように七代君のお母さんの声が私の耳に入った。

「あなたが謝ったら、千馗は帰ってくる?」

 私はうつむき、目を閉じた。そうしたかった、だが、目の前にいる人に、私は答えなくてはならない。七代君が死ぬことになったのは、すべて私のせいです。そう言わなくてはならない。私のお父さんが、私を死なせないために、お母さんとの約束を守るために、七代君の命を犠牲にしました。
 口をひらこうと瞼を開いたら、視界がぼやけていた。なんだろうと思った瞬間、それは落ちた。涙だった。私はごめんなさい、と言って、涙をぬぐった。止まらない。
 
「ねえ、朝子先生」
「ごめん、なさい……っ、私、」
「泣いても、千馗は帰ってこないわ」
「ごめんなさい、ごめんなさい、」
「違うのよ、先生。聞きなさい。聞いてから泣いて」

 私は涙をなんとかこらえて、七代君のお母さんのほうを向いた。こらえたつもりがまた涙がこぼれる、涙は止まらない。止まってはいけない。七代君のお母さんは、いつのまにか私のそばにいた。微笑んで、ハンカチを私の手に握らせる。
 
「あらあら、千馗はずいぶん泣き虫な人たちを選んだのねえ」
「っ……、すいま、……たち?」

 ひゅん、と涙が止まった。私は口を開けて七代君のお母さんを見る。とても間抜けな顔をしているのだろう。彼女はにっこりと笑ったまま、私を見る。

「ここに来る間に、何回も千馗に間違えられたの。みんな、駆け寄ってきて、びっくりして、泣いて、ごめんなさいって言うの」
「みんな……」
「あの子はみんなを優先したのね、きっと」
「七代くんは……そういう子でした」
「そう?じゃあ、みんな千馗を頼ってくれたのね」

 七代君のお母さんは笑ったまま、私の顔をハンカチでぬぐった。私の目からはもう涙はこぼれなかった。頭の中で、ずっとぐるぐると考えた。七代君は私の、私だけのせいで死んだわけではないのだ。

「あの子は頼られると、それに応えようとする子だった。でも、人の期待は際限がないでしょう?それはいけないことでもなんでもないと私は思うわ。応えて応えて応えて、結果的にあの子は死んでしまった。それだけよ」
「……」
「変なこと言ってるでしょう、私。みんなにも同じこと言ったの。みんな、今のあなたみたいな顔してたわ」

 くすくすと笑う七代君のお母さんは、もう私の顔をぬぐっていたなかった。私は自分の顔を触って、涙が流れていないのを確かめた。私はもう泣かないのだと感じた。それは、七代君との別れのような感じもした。
 七代君のお母さんは、手を伸ばして、ちゃぶ台のお茶を取って飲んだ。すこし飲んで、冷めているか舌で確かめたあと、ごくごくと飲んだ。私はそれを見て、小さく笑った。

「あら、どうしたの?」
「ごめんなさい……七代君も、お茶を飲むときそうしていたのを思い出して」
「そうなの、冷めないと飲めないのよ。猫舌でもなんでもないんだけど、ぬるいお茶じゃないとダメなのよ」

 七代君のお母さんはけらけらと笑って、お茶を飲んだ。私は、少し泣きそうな気持ちになったが、脳裏に浮かんだ七代君の照れ笑いを思い出して声に出して笑った。

「遺品って、どれだけあるのかしら、郵送した方がいいかしらね」
「目立つものは結構あると思います。七代君、友達からもらったものをたくさん飾ってましたから」
「まあ、たとえば?」
「トーテムポールとか、ギターとか」
「なあにそれ、持って帰れないわ」

 今度は私が噴き出して、七代君のお母さんが笑った。七代君の部屋にある変な置物や、彼がいろんなものを混ぜたりして晩御飯に持ち込んだりしていたことを話した。彼女はそれにうんうんとうなづいて、たくさん聞いた。
 笑い声に反応したのか、部屋のふすまが開いて、お父さんが入って来た。目を丸くして、驚いた顔をしたお父さんは、お茶菓子をちゃぶ台の上に置いた。

「茶菓子です、どうぞ」
「まあ、おいしそう。朝子先生もお食べになって」
「はい。ああ、七代君もはじめて来たときこれ食べたんですよ」
「朝子、お前……」

 軽く七代君の話をする私に、お父さんは信じられないという顔をして、私の顔を見た。私は、お父さんの目を見て、うなずくように笑った。「ね、お父さん」と続けて言うと、お父さんは戸惑った顔で「ああ」と言った。

「じゃあ、帰りに買って帰ろうかしらねえ」
「七代君が好きなのはこれです。私のおすすめはこれなんですよ」

 私は茶菓子を取って、封を開けた。口に放ると、涙の味でいっぱいだった口内にお菓子の味が広がる。七代君に、これを食べさせるのを忘れていたな、とふいに思った。

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