注文の無い喫茶店

 カラン、と店内に音が響く。澁川はコップを磨いていた手を止めて、音のする方を見た。ゆっくりと扉を開けた七代が、カナエさんに飛び掛かられないように店内を見回し、安全を確認して慎重に入る。そして一部始終を見ていた澁川の視線に気づくと、恥ずかしそうな、人懐っこそうな笑顔を浮かべて言うのだ。
「フレンチトーストとコーヒー、おねがいします」
 わふん、と耳に生暖かい息がかかって澁川は目を開いた。……どうやら眠っていたようだ。店内には薄日が差し、変に明るい。じんわりと首に感じる湿気に、雨が降っていたのだと悟る。澁川は首を回して、そばでこちらを見ていたカナエさんに笑いかけた。
「あいつの夢を見たよ」
 わふ、とカナエさんは、しっぽを振ってカウンターから降りた。そして、ちょうど澁川の正面にある椅子に飛び乗って、体を丸める。七代がいつも座っていた席だ。
 フレンチトーストを切り分けたナイフを、ぺろりと舐めたのを諌めたのが懐かしい。ハチミツがおいしいのがいけない、と言われたのまで思い出す。それからずっと、ハチミツの銘柄は同じにしている。

 気分転換に窓を拭こうとカウンターから出ると、足元が濡れているのに気が付いた。どうやら雨は、相当ひどかったらしい。モップを取って水を掃く。窓の外を見ると、ビルの合間から太陽が見え隠れしていた。
 ひさしぶりの太陽だ、と澁川は口の端をわずかにあげた。

「七代は死んだ」
 あのクリスマスの夜、伊佐地がやってきて言ったのはその一言だけだった。なぜ死んだのか、死んだ七代はどうなったのか。澁川は聞かなかった。ただ黙ってコーヒーを出した。受け取った伊佐地の手は震えていた。
 それから、と考えて澁川は止めた。そろそろ時間だったからだ。店の壁にかかった時計は、いつも七代が来ていた時間を指していた。

 コーヒーを淹れ、フレンチトーストを焼く。ハチミツは、かけすぎた方が喜ぶ。七代のうれしそうな顔を思い浮かべて、澁川はハチミツをかけた。
 七代の指定席に、澁川はフレンチトーストとコーヒーを置く。最後に会話したときの七代の顔を思い出す。
 カラン、と店内に音が響いた。そんな気がして、澁川は笑った。

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